【ワンシーン批評】『ちはやふる 結び』:青春映画ではなぜ「走る」シーンが登場するのか?(ネタバレなし)
はじめに
みなさんこんにちは。ナガです。
日本では毎年たくさんの青春映画がつくられますよね。とりわけ少女漫画の実写化映画は非常に数が多いです。私はこういう類の映画が大好きなので、公開されるとすぐに見に行っています。みなさんはどれくらい見ましたかね?
メインブログの方で少女漫画の実写化映画を25作品纏めてレビューした記事がありますので良かったらこちらも読んでみてください。
本当に毎年追いかけられないくらいに公開されている日本の青春映画ですが、このジャンルの映画の定番のシーンの1つに走るシーンがあります。
今回は映画『ちはやふる 結び』に登場する疾走シーンを取り上げて、青春映画ではなぜ主人公が、ヒロインが走るのかということを考えていきたいと思います。
作品情報
題名『ちはやふる結び』
監督:小泉徳宏
脚本:小泉徳宏
原作:末次由紀 『ちはやふる』
製作:北島直明/巣立恭平
製作総指揮:伊藤響/安藤親広
出演者:広瀬すず/野村周平音楽:横山克
主題歌:Perfume 「無限未来」
撮影:柳田裕男
編集:穗垣順之助
制作会社:ROBOT
製作会社:2018映画「ちはやふる」製作委員会
配給:東宝
公開:2018年3月17日
上映時間 128分
今回のワンシーン
青年はなぜ走るのだろうか?
何のために?自分のため?誰かのため?
その先に待つものは・・・?
少しでも早く1歩先へ・・・1歩先へ・・・。
それはまるで人間の進化のプロセスとも言えるのではないだろうか?
(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社 映画「ちはやふる 結び」予告編より引用
批評:青春映画ではなぜ「走る」シーンが登場するのか?
青春映画において「走る」シーンが多用される理由を考えてみようと思ったのは、ある面白い記事を見つけたからです。
この記事は2004年にデニス・ブランブルとリーバーマンによって執筆されました。その主題は「人間は走るべく進化した存在である」というものです。
まず、皆さんは「ランナーズハイ」という言葉を聞いたことがありますか?これは人間が人が走っている時に快感を感じる現象のことを指します。これは走る際に人間の身体が快楽物質を分泌することに起因します。
アリゾナ大学のディビッド・ラクラレン教授は人間と共にフェレットをランニングマシーンを用いて30分間走らせました。その結果として人間の血液からは快楽物質が検出されたものの、フェレットからはそれが検出されなかったのです。
つまり人間には走るための素質が元来備わっているということになります。
そしてデニス・ブランブルとリーバーマンは人間がその走るための素質を有しているのは、先天的なものでは無くむしろ進化によって形成されたものではないかということです。そもそもアフリカにいた人間の祖先と言われる種族たちは足の身体機能的に走れなかったのではないかと指摘されています。
ただそれではかつての狩猟時代を生き抜くことが出来ません。獲物を負うことも出来なければ、外敵に狙われても逃げることもできません。そのため人間は生存するために「走る」という機能を獲得していったのではないでしょうか。特に長距離を「走る」という機能において人間は突出しています。
つまり人間の走るという行為は、人間という種族の進化の表象とも言えるのです。
よって青春映画において「走る」という行為は、物語を通してキャラクターの内面が大きく変化し、人として進化したことの証明を視覚的に表現していると考えることはできないでしょうか。だからこそ青春映画においてはあまり「走る」シーンを多用することなく、溜めて溜めてクライマックスのここぞと言うシーンで用いられるケースが非常に多いですよね。
映画『ちはやふる 結び』でもまさしく「走る」行為は進化の表象として描かれていました。今すべきことに気づき、人間として大きく成長した太一がひた走るあのクライマックスのワンシーンはまさしく彼自身の進化の証明ではないだろうか。
走り終えた後のシーンで登場する彼の姿はもはやそれまでの彼とは風格が一味も二味も違います。1人の人間として何かに目覚めたような表情を魅せてくれます。
人類が種と言うコレクティブな単位で「走る」ことで進化してきたように、青春映画のキャラクターたちもまた「走る」ことでインディヴィジュアルな単位で青春イニシエーションを通過し、1人の人間として進化しようとしているのです。
関連リンク
映画「ちはやふる 結び』について熱く語ったメインブログのレビュー記事です。「青春映画においてオトナが果たす役割」について考えてみました。良かったら読んでいってください。